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ヒッタイト帝国

ヒッタイト帝国は、人類最初の鉄を作り出したとして知られるヒッタイト人達によって紀元前1700〜1600年代頃アナトリア(小アジア)を中心に建てられた帝国です。

ヒッタイト人とはインド・ヨーロッパ語族系の民族で紀元前2000年〜1800年代頃にカッパドキア地方に移住を始めたと考えられています。彼らの起源は明らかにされていませんが、黒海の北方からアナトリア移住してきたとも言われています。当時のアナトリアにはすでにハッティ(Hatti)人と呼ばれる土着の人々が住んでいましたが、ヒッタイト人達は平和的・友好的にアナトリアに拡散し始め、ハッティ人達と異人種婚姻を繰り返し共存しながら、アナトリアに融けこんでいき次第に優位な状態としていったのです。

長い年月の後、ついにハットゥシャ(現在のボアズキョイBogazkoy、アンカラの東約170km)を首都としてヒッタイト帝国を建国、アナトリアを支配し次第に勢力を強め、のちにメソポタミア地域(チグリス川とユーフラテス川の間の地域、現在のイラクあたり)にあったバビロニア帝国(紀元前1900年代〜紀元前1600年代)にまで侵入し征服することとなりました。しかし法律、宗教、文学等は古代バビロニア帝国時代のものを採用したため文化的にはシュメール人達の影響を残したものとなりました。

ヒッタイト人は歴史上民族的にも文化・文明的にも非常に重要であると考えられているものの、その謎はまだ全てが解明されていません。ただしヒッタイト人達は農耕生活をしていましたが主要な活動は商業であり偉大なる商人達であると同時に、優秀な戦士でもあり多くの包囲攻撃の戦略を生み出したことは間違いないようです。

年代的にもいろいろな説がありますが、概要的にはヒッタイト帝国の最盛期は紀元前1600年代から紀元前1200年代とされています。しかしその後アッシリア人達がメソポタミア地域に勢力を伸ばしたあともヒッタイトの街々は紀元前717年まで独立状態で繁栄を続けました。これにより、一般に紀元前1600年代から1200年代をヒッタイト帝国、その後紀元前717年までを後期ヒッタイト王国等と呼び区別されています。

ヒッタイト人の言語

ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族系の民族であることから、英語・ドイツ語・ギリシャ語・ラテン語・インドの言語と同系であり、それらの言語と非常に類似した言葉を話していたと考えられます。彼らは外交文書にはアッシリアに属すアッカディア語の楔形文字を利用し王室内や宗教上はヒッタイト人達独自の象形文字又は楔形文字を利用していたということがわかっています。

ヒッタイト帝国の社会

ヒッタイト帝国においては、王が偉大なる権力を持ち全てを包括的に管理し、支配者であると共に軍事指揮官、裁判官、そして高僧の地位が確立していました。又、女性の地位は卓越したものであり、王の妻も王同様の権力を握り内政だけでなく外交に関してもおおいに活躍しました。一般社会においても男女平等の概念が浸透していたことが確認されています。

法律に関しては、基本的に古代バビロニアの法律であるハムラビ法典を受け継ぎながらもより一層人間味のあるもので比較的緩和されたものでした。人権を守る法律なども規定されており奴隷階級の人権さえ守られ、当時の法律としてはかなり先進的なものだったのです。

宗教

ヒッタイト人達は多神教であり、古代バビロニアやシュメールの多くの神を取り入れ、侵略した地に信仰される神がいればそれらの神をも取り入れるという古代日本の氏神に似たものでした。

死後は土葬と火葬の両方式があり、決められた法則はありませんでした。興味深い点は、土葬の場合、動物、特に馬と共に埋葬されることが特徴的なものでした。

ヒッタイトの神殿についてはヤズルカヤ(Yazilikaya)をご参照ください。

カデシュ条約

    
この条約は記録に残る世界最古の国際条約であり、紀元前1284年頃にヒッタイトの王ハッティシリ(Hattisilis)とエジプトの王ラムセス(Ramses)2世によって結ばれた平和条約です。カデシュ(現在のシリア)をめぐる大規模な戦い(カデシュの戦い:紀元前1265年前後)はヒッタイト側に勝利をもたらしたものの両者を窮地に追い込んだため領土争いに終止符を打つ目的で定められました。条文は2種類作成され、ひとつはエジプト側により象形文字で書かれ、もうひとつはヒッタイト側により当時の国際語アッカディア語の楔形文字で銀の銘板に記載されたもので、後者のコピーである粘土板3枚がハットゥシャで発見されました。このうち2つは現在イスタンブール考古学博物館で、もうひとつはベルリン博物館で展示されています。

ヒッタイト帝国の衰退

ヒッタイト帝国の衰退の正確な理由はいまだ明らかにされてはいませんが、カデシュの戦い以降、急速に勢力を弱め始めると同時に疫病や飢饉により人口の減少が起こり始めたのです。そして他民族、特に海の民(海人)と呼ばれるエーゲ海から人々やアッシリア人達の侵出により次第に領土を縮小することとなりました。新しい移住者達と共存しながらも紀元前1200年頃には帝国としての地位は衰退し、アナトリアのいくつかの地方でわずかに独立を保ちながら文化や言語を受け継いでいき紀元前700年まで帝国の名を残しました。



ヒッタイトに関する書籍

*「鉄を生みだした帝国―ヒッタイト発堀」 大村幸弘著  ¥914
 〜ヒッタイトの発掘調査と共に人々とのふれあいなども書かれた本〜

*「アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年」 大村幸弘著 ¥914
〜日本の調査隊によるヒッタイトの発掘調査の全貌〜

*「天(そら)は赤い河のほとり (1)」  篠原千絵著 ¥398
〜古代ヒッタイトにスリップした少女を主人公にヒッタイトの歴史を楽しみながら読めるコミック本、全28巻〜

ヒッタイトに関するDVD

*「NHKスペシャル トルコ・文明の十字路~よみがえる鉄の民 ヒッタイト~」  ¥3,990




カテゴリー: トルコ共和国 − 歴史 − ヒッタイト帝国


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