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オスマントルコ帝国歴代のスルタン達


オスマン 
Osman

1299〜1324/26
オスマントルコ帝国の基礎を築いた人物。言うまでもなく帝国名は彼の名前から付けられました。セルジュクトルコ時代に独立を宣言し、故郷ソウトを中心に領土を広げ始めたのが帝国の始まりとなりました。 
オルハン 
Orhan

1324/26〜1360
オスマンの息子で、ブルサの街を領土に加え帝国としての組織を確立した人物。彼は人望が厚く人々の信頼を得ていたため、オスマントルコ帝国の勢いを一気に増すこととなりました。
ムラト1世 
MuratT

1360〜1389
オルハンの息子で、アナトリアだけでなく、ブルガリア、マケドニア等にまで領土を拡大した人物。彼の時代に帝国の首都をブルサからアドニアノポール(現在のエディルネ)に移しました。軍事力を高めるためにイェニチェリと呼ばれるオスマントルコ帝国の常備軍とする新軍を再編成し、軍事を重視。イェニチェリの存在はのちの帝国拡大に大きな役割を果たすことになりました。又、オスマントルコ軍楽隊として知られるメフテルはイェニチェリの中の楽団のことで、メフテルの音楽は日本でも大変馴染み深いものとなっています。
ユルドゥルム ベヤズド 
Yildirim Beyazid

1389〜1402
13度の戦いに勝利を得た彼の勇敢なる行いから一般にユルデゥルム(稲妻)という愛称を付けられて呼ばれています。彼が行った税制によりオスマントルコ帝国は大変裕福な財政を保つことができました。
チェレビ メフメト1世 
Celebi Mehmet T

1413〜1421
弓の名手でもあったメフメトは大変優れた政治家でもありました。トルコ民族系の数多くの氏族が住むアナトリアの地を合併させたことにより彼は俗にオスマントルコ帝国の第2の創始者とも言われています。
ムラト2世 
Murat U

1421〜44、1446〜1451
雄弁家として知られるムラトの人生最大の幸福は息子メフメト(のちのファティフ メフメト)で溺愛していました。平和で静かな生活を好む一方、彼の大胆かつ精力的な軍事活動及び威厳と公正さにより人々の多くの信頼を集めました。これにより30年間という長い間スルタンの座につくことができたのです。
ファティフ メフメト2世 
Fatih MehmetU

1444〜46、1451〜81
ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させ、イスタンブールという名のもとオスマントルコ帝国の首都として定め、オスマントルコ帝国の領土拡大の基盤を作った人物。メフメト2世は、彼の業績から一般に征服王メフメト(Fatih Sultan Mehmet)の名で知られています。
ベヤズド2世 
Beyazid U

1481〜1512
学業を愛した父ファティフ メフメトにより英才教育を受けて育ったベヤズドが文化と文明の街アマシヤ(Amasya)の総督となったのは彼が7歳の時のことでした。信仰深く文学を好む彼は貧しい人々へ施しを与え、有名な詩人達をいつも宮殿に招いたり、周辺諸国の言語を学びながら哲学や数学の研究に励んだと言われています。
ヤヴズ セリム1世 
Yavuz Selim T

1512〜1520
科学や神学を好むと共に行政管理や軍事システムについても研究を重ねました。周辺諸国(特にジョージア)を占領した時にはそこに住む人々を熱心にイスラム教徒に改宗させました。彼は大変おしゃれに気遣う人物でもあり新しいタイプのターバン(左写真)をつくり、他の全てのスルタンが顎髭をはやしていたにも関わらず口髭を美しくカットして身だしなみを整えていました。
スレイマン1世 
Suleyman T

1520〜1566
オスマントルコ帝国の最盛期を築いた人物。当時の領土は東ヨーロッパ、北アフリカにまで広がっていました。彼は帝国として軍事的成功を修めただけでなく、芸術や文学、哲学等を愛する人であったためイスタンブールを中心として建築物や文化面でも華やかな時代を作ることとなりました。特に彼のもとで仕えた大建築家ミーマールシナンによる数多くの建築物は現在でもトルコの重要な建築物として残されています。彼の成した偉業により日本では彼のことを「スレイマン大帝」と呼び、ヨーロッパ諸国では「Great」「Magnificient」という称号が付けられて呼ばれています。ただしトルコ国内においては、彼は法律に関して多くを整えたことから法律や規定と言う意味を持つ「カーヌニKanuni」という称号を付け、Kanuni Sultan Suleymanとして呼ばれています。
セリム2世 
Selim U

1566〜1574
金髪であったことから「黄色いセリム」として知られる彼は歴代の優秀なるスルタン達とは比べ物にならないほど無能であったと言われています。スレイマン1世の息子であるものの本来スルタンとなるべき兄弟達が全て戦死してしまたため残った彼がやむなくスルタンとなったものの一度も参戦や軍の指揮をすることもない名ばかりのスルタンでした。このため帝国の実質の指揮官は当時の首相(ソクルル メフメト パシャ)が行っていました。
ムラト3世 
Murad V

1574〜1595
アラビア語とペルシャ語を流暢に話し、優秀な学者に教育を受け、帝国のスルタンの中で最も頭脳明晰だったといわれています。彼の父セリム2世の時代から指揮官として活躍していたソクルル メフメト パシャのおかげで当時の帝国領土は19,902、000平方Kmにも広がっていました。
メフメト3世 
Mehmet V

1595〜1603
スレイマン1世を祖父とする彼は母を溺愛していたため彼の母は息子を利用し自分の思い通りに帝国を支配するように仕向けました。彼は信仰深く、禁酒命令を出し全ての居酒屋を閉店させたことでも知られています。
アフメト1世 
Ahmet T

1603〜1617
乗馬とフェンシングを得意とし弓や狩猟を好む彼は軍人としても政治家としても優れていました。14番目のスルタンとして14歳で即位し14年間在位したということから彼の人生にとって14という数字が非常に縁の深いものとなりました。
ムスタファ1世 
Mustafa T

1617〜18、1622〜23
彼の兄アフメト1世が統治する14年間幽閉されたため(当時は王座の後継人は殺害されたり幽閉されたりすることが珍しくありませんでした。)、精神病となっていたため一旦はスルタンに即位しましたが、その地位を退位させられることとなりました。しかし次に即位したゲンチ オスマンが殺害されたため、王位が復活、しかしまもなく再びその地位を退位させられることとなりました。
ゲンチ オスマン2世 
Genc Osman U

1618〜1622
アフメト1世の息子であるオスマン2世はムスタファ1世が退位したことを受け14歳の若さでスルタンの座につきました。このためゲンチという若いという意味を持つ愛称が付けられて呼ばれています。アラビア語、ペルシャ語、ラテン語、ギリシャ語、イタリア語を流暢に話す彼は文学を好む一方、改革者でもあり、特に現存するイェニチェリを改革するために軍人達の意向を無視し新しい軍隊編成を取り入れる計画を立てたため、それを知った軍人達はその計画が実行される前に彼を殺害してしまいました。
ムラド4世 
Murad W

1623〜1640
頭脳明晰で勇敢なスルタンとして知られるムラド4世は非常に信仰深く、たばこと酒を禁止し夜に出かけることも禁止しました。彼は科学を愛していたことからヘザルフェン アフメト チェレビが初飛行に取り組む時にも非常に興味を寄せていました。(後に側近によりチェレビを流刑としました。)彼は秩序の乱れた帝国問題を解決するべく取り組みを始めましたがわずか28歳で病死してしまいました。
イブラヒム 
Ibrahim

1640〜1648
アフメト1世を父とするイブラヒムはムラドの死後即位しますが、彼の兄ムラド4世の突然の死の悲しみや宮殿内のスルタン殺害の陰謀による恐怖のためにスルタンとして即位したことを全く嬉しく思っていませんでした。彼は神経衰弱し発病したため、彼の息子が誕生したときに唯一王冠をつけたと言われています。彼は慈悲深く貧しい人々を助けることに努めましたが、彼の母や当時の首相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことはありませんでした。
アヴジュ メフメド4世
Avci Mehmed W

1648〜1687
父イブラヒムが殺害された後7歳で即位。彼はアフメト キョプルルを首相に命じ、彼の功績により帝国は一時復活しはじめることとなりました。しかも帝国は過去最大の領土を有することとなりましたが、ウィーン包囲による敗戦後退位し幽閉されてしまいました。彼は狩りの名手であったためアヴジュ(狩人)という愛称を付けて呼ばれています。
スレイマン2世 
Suleyman U

1687〜1691
イブラヒムの息子で即位までの40年間幽閉されていました。賄賂や娯楽を嫌う信仰深く正直な人物で帝国内の賄賂や暴虐行為に反感を覚え、管理体制の修復に努めました。在位中の後半の2年間は病床につき1691年病死してしまいました。
アフメド2世 
Ahmed U

1691〜1695
イブラヒムの息子で英才教育を受けて育ちました。彼の在位中は帝国内の規則に従い従順な生活を送りました。
ムスタファ2世 
Mustafa U

1695〜1703
メフメト4世の息子で科学に精通した人物で、即位3日後には演説を行い自ら娯楽や快楽を禁止することを誓い、自分自身には権力や財宝が不要であり、必要ならばパンのみでも生活できると宣言。信仰に身を投じ、帝国内の安泰に対する意思を唱えました。
アフメド3世 
Ahmed V

1703〜1730
メフメト4世の息子でムスタファ2世の死後即位。頭脳明晰で温厚な性格で音楽や文学を愛する人物でした。ヨーロッパの文化を取り入れながら独自の文化を発展させ「チューリップ時代」と呼ばれる華やかな文化時代を作り出しました。彼が任命した首相チョルルル アリ パシャと共に行政や財政問題の改革に努めました。彼の時代、地中海の領土をめぐりロシアとの関係が非常に緊張したものとなりました。
マフムド1世 
Mahmud T

1730〜1754
ムスタファ2世の息子で歴史や文学、音楽に興味を持ち、温厚な性格で寛容的でありながらも決断力に優れ、慈悲深く忍耐力のある尊敬に値する人物であったといわれています。彼の父のなし得なかった目標である福祉的人生を投じることに成功しました。
オスマン3世 
Osman V

1754〜1757
ムスタファ2世の息子でマフムド1世の病死後56歳で即位。しかし人生のほとんどを幽閉生活を送ったため精神病的性格がありましたが性格的には慈悲深い人物でした。音楽を嫌っていたため宮殿内の音楽家を全て退去させました。又、女性の召使と会う事も嫌っていたため自ら鉄のかかとの靴をはき、女性達はその足音を聞くと隠れるようになったといいます。3年間の在位中に7度も首相を替えさせたとことでも有名です。
ムスタファ3世 
Mustafa V

1757〜1774
アフメト3世の息子でオスマントルコ帝国とイスラムの歴史を研究し慈悲深い人物として知られています。イスタンブールで大地震が起こり街の半分以上が崩壊した時には自らの財産を費やして救済に努めたと言われています。衰退する帝国の改革の必要性を感じ日夜計画を練り、新しい軍事規定を定め、海軍や砲兵のための訓練所を作り、帝国復興のために努めましたが、重要なロシアとの戦い中、病死してしまいました。
アブドゥルハミド1世 
Abdulhamid T

1774〜1789
アフメト3世の息子で軍隊システムを改革し新しく砲兵隊を作りました。慈悲深く信仰深い人物であり市民に対しても大変寛容に対応し、特に1782年にイスタンブールで大火災があったときには消防隊を指揮し市民の称賛を得たことからもヴェリ(聖なる)アブドゥルハミドとも呼ばれていました。
セリム3世 
Selim V

1789〜1807
ムスタファ3世の息子で文学やカリグラフィーを好み音楽や芸術を愛する人物でした。オスマントルコ帝国を近代化させることを目標としていましたが、次のスルタンムスタファ4世の側近により殺害されてしまいました。
ムスタファ4世 
Mustafa W

1807〜1808
アブドゥラハイミドの息子で貧欲でずる賢く神経質な性格で、娯楽を好む人物でした。前スルタンセリム3世を陰謀により殺害し、彼の側近や支持者をすべて処刑してしまいました。反逆者の出現やイェニチェリが再び恩恵を受け権力を握りだしたのもこの時代となります。
マフムド2世 
Mahmud U

1808〜1839
アブドゥラハミドの息子で頭脳明晰である彼はヨーロッパが行った改革を手本としオスマントルコ帝国の復興を手がけました。特に裁判システムを改正し、多くの規定を修正しました。しかし結核により54歳で死去。
アブドゥルメジト 
Abdulmecit

1839〜1861
マフムド2世の息子で父の改革を受け継ぎ西洋文化を見習いながら公正に改革を進めましたが、39歳の若さで結核により死去。彼が病床に伏した頃、エジプトの総督となっていたカヴァララル メフメト パシャが反乱を起こしオスマントルコ帝国を撃退。ヨーロッパ諸国が帝国とパシャを仲裁することになりましたが、エジプトが権力を持つ事に不安を感じたヨーロッパ諸国は条約によりエジプトがオスマントルコ帝国に属すこと、毎年税金を支払うことなどを制定、しかしこれらの条約にもかかわらずオスマントルコ帝国は尚も衰退の途を進むこととなりました。
アブドゥルアジズ 
Abdulaziz

1861〜1876
マフムド2世の息子で浪費癖のある彼はフランス語を習得し、音楽や芸術、文学等を好みました。狩りの名手としても有名です。

ムラド5世 
Murad X

1876

アブドゥルメジトの息子でフランス語を習得しフランスから取り寄せた書籍を常に購読していたといいます。西洋文化に影響されピアノを弾いたり西洋風の曲を作曲したりもしましたが基本的には貧欲で贅沢好きとして知られています。アブドゥルアジズと共にヨーロッパを訪れエドワードウェールズ皇太子(のちの英国王エドワード7世)とも親交を深めました。帝国の問題に無関心で在位期間は93日間のみでした。
アブドゥルハミド2世 A
bdulhamid U

1876〜1909
アブドゥルメジトの息子で母を幼少の頃に亡くしたために家族を愛し、公正で寛大なる人物でした。オスマントルコ帝国が崩壊寸前の時に即位したものの、彼の成した政治的、社会的行政措置により帝国を安定させ33年間もの間在位することとなったのです。彼は芸術や農業の学校を作るとともに多くの小学校や高校、そして視聴覚障害者のための学校も建てました。又病院や貧困者のための施設も自らのお金を費やして建設するとともに高速道路や鉄道の建設にも力を入れました。
メフメド5世 
Mehmed X

1909〜1918
アブトゥルメジトの息子で65歳の時にスルタンとなりました。彼は政治や行政に全く興味を示さず、帝国の実質上の指揮は側近が行っていました。
ヴァフデッティン 
Vahdettin

1918〜1922
アブドゥルメジトの息子でオスマン帝国最後のスルタン(36代目)となりました。彼が生まれた年に父を亡くし、その数年後に母を亡くしたため兄のアブトゥルハミドが彼を手厚く育て、英才教育の結果、非常に頭脳明晰、しかも大変上品でした。アタチュルクによる独立戦争でオスマントルコ帝国が崩壊すると彼はエジプトに逃げ、その地で逝去しました。


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